初瀬街道


初詣ウォーク 資料・注釈
( by 風人 )


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初瀬街道地図







長谷寺


 奈良県桜井市初瀬に所在する真言宗豊山(ぶざん)派の総本山。
 古来より初瀬寺・泊瀬寺・豊山寺とも書かれます。 西国三十三ヶ所観音霊場の八番にあたり、牡丹や桜などの花の寺としても知られています。

 創建には諸説あるようですが、製作時のままで伝えられているとされる銅版法華説相図の文面による説が有力なようです。
 それによると、朱鳥元年(686)道明上人が、天武天皇のために銅板法華説相図を西の岡に安置されたのを創始とします。道明上人は、川原寺の僧であったようです。

 その後聖武天皇の時代に本尊十一面観音が開眼され、寺院として形作られて行きます。 

 平安時代になり観音信仰が盛んになると、長谷寺参詣が平安貴族の中で急速に流行してゆきます。初瀬詣と称され、平安文学に度々登場することになります。その道中は、初瀬街道と呼ばれ後世にまで賑わいを残すこととなりました。

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注1


 長谷寺は、火災による堂宇の消失が多く、明治期にも度々の出火による建て替えが行われています。しかし、江戸時代の建築である本堂は、特異な建築様式を見せており、昨年(2004年10月)には国宝の指定を受けました。

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平等寺


 三輪山平等寺 
 創建は、案内板によれば、用明2年(587)聖徳太子が蘇我馬子と共に廃仏派の物部守屋を平定するために三輪明神に祈願し、目出度く平定の後に自ら十一面観音を彫ってお寺を建立したと伝えています。
 そのお寺は「大三輪寺」と称していたのですが、その後鎌倉時代の初期に慶縁上人が「平等寺」と改称されてから大伽藍の寺院となったようです。

 明治初年の廃仏毀釈によって、平等寺はすっかり衰えることになります。後には、二重塔や護摩堂などが取り払われることになります。この時、平等寺に祭られていた数々の仏像は、他寺に移されることになります。現在、聖林寺十一面観音として有名な観音像もその一つです。他にも四天王像が長岳寺に、地蔵菩薩像が法隆寺に移されました。

 明治23年になって翠松寺というお寺が河内から移され、旧平等寺の山門付近に再建されました。昭和になって元の「平等寺」という名前に戻りました。


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注2


 補足説明です。古代の官道として存在した山の辺の道は、この道ではありません。詳しくは、こちらをご覧下さい。 
 ただ、東海自然歩道として史跡を繋ぐ「山の辺の道」を否定するものではありません。ウォーキングには楽しい道として、私も度々歩いています。





大行事社


 大神神社の末社で、祭神は事代主神・賀屋奈流美命・八尋熊鰐神。
初瀬街道のページにも書いた三輪恵比須神社の元宮とされています。事代主神は別名恵比須神として知られています。
 事代主神・賀屋奈流美命は、共に三輪山の神である大己貴命の子とされます。

 三輪の市は、元はこの近辺にあったものが、西に中心を移したと言われます。

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志貴御県坐神社

 しきのみあがたにます神社と読みます。
 大和には、高市・葛木・十市・志貴・山辺・添の6つの御県神社があります。御県というのは、大化改新以前の朝廷の直轄地を言うのだそうです。
 本来のご祭神の詳細は不明なようです。饒速日命(にぎはやひのみこと)ともされるそうです。饒速日命は物部氏の祖先神として知られます。

 また、この地は第十代崇神(すじん)天皇の磯城瑞籬宮(しきのみずがきのみや)跡に比定されています。
 崇神天皇は、実在した最初の天皇とされますが、三輪山山麓に力を持った王達の総称であるのかもしれません。しかし、初期大和政権と言われる大きな勢力が、この付近に誕生していたのはほぼ間違いの無いところでしょう。
 宮地についての疑問は有りますが、この辺りも候補地の一つにはなりえるでしょう。

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海石榴


 石榴・柘榴は「ザクロ」のことですが、海を付けるとツバキと読ませます。 不確かな説ですが、参考として紹介します。
 
 「ツバキ」は日本特産の植物であったそうです。その「ツバキ」が中国に渡った時に、中国の「ザクロ」に似た花を咲かせたのだそうです。それで中国では、「ツバキ」を海を渡ってきた「ザクロ」の意味で、「海石榴」と書くようになったのだそうです。 
 漢字がもたらされて我が国でも古代には、「海石榴」の文字が使用されたのだと言います。 後に、我が国のツバキのイメージの表現としては相応しくないと思ったのか、「椿」の文字が当てられるようになったとされます。

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馬具の名称









仏教伝来の地


 公的に我が国に仏教が伝えられたのは、欽明(きんめい)天皇の13年(538)とされています。最終的に百済からの使節が訪れた欽明天皇の宮は、磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや)と言いますが、桜井市外山(とび)や金屋または粟殿(おうどの)周辺が比定地になっています。外山・粟殿は、初瀬川南岸の地にあり、今は外山の桜井市水道局敷地内に跡地を示す石柱が建てられています。仏教伝来の地の石碑の初瀬川対岸にあたる地域になります。あくまでも比定地であるわけですが、その付近を含む近辺にあったのでしょう。

 仏教伝来の地をどう定義するかにもよるのでしょうけど、使節の大和での上陸地点をもって伝来の地とするのは強引過ぎるようにも思えます。

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玉列神社


 大神神社の摂社です。古くは、玉椿(たまつばき)大明神とも言われたそうです。
祭神は大物主神の子、玉列王子(たまつらのみこ)神で、玉列は魂貫の意を表すのだそうです。
 境内には、所縁の椿が数多く植えられていました。もともと椿の木が多い地域であったのでしょうか。

 また隣接地には、慈恩寺「阿弥陀堂」があります。境内石段の横には、欅の大木があります。樹齢900年と言われていますが、落雷でもあったのか傷みがひどい状態になっています。2005年1月3日には、休養中の札が掛かっていました。

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注3


摂社とは、本社に付属して、その祭神と縁故の深い神をまつった神社のことです。
末社とは、本社に付属する小さな神社です。摂社に次ぐ格式を持ちます。

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脇本遺跡

脇本遺跡は、縄文晩期から歴史時代に跨る複合遺跡です。とりわけ注目したいのは、5世紀後半から6世紀初頭にかけての時期と思われる建物跡が出土していることです。大型掘立柱建物や石溝・柵列の状況などから宮殿跡ではないかとされてきました。

 時代の一致や記紀に書かれる宮名から、第21代雄略天皇「泊瀬朝倉宮跡」が候補に挙がりました。遺跡は、村中に及ぶようで全体像はまだ見えていないようですが、春日神社を中心にした大規模な遺跡であるようです。

 春日神社裏は崖になっているのですが、一見して不自然な地形です。人工的に切り崩してあるように見受けられました。

 脇本遺跡からは、他にも6世紀後半(欽明朝)と7世紀後半(天武朝)ころの大型建物跡が出土しています。それは、公的な建物であるようです。宮が建てられるような優れた地形は、後々まで利用しやすい場所であったのでしょう。


 万葉集には、約4500首の歌が記載されていますが、その万葉集の冒頭を飾る歌は、雄略天皇の歌です。

 籠(こ)もよ み籠持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串持ち 
 この岳に 菜摘ます児 家聞かね 名告らさね 
 そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ 
 しきなべて われこそ座せ われこそは 告らめ 家をも名をも

 実際に雄略天皇が詠んだとは思われませんが、脇本のなだらかな岡の上から眺めていると、歌の情景が見えてくるような場所であることは間違いありません。
  また、 「そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座せ」は、大王雄略らしい歌であるように思われます。


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十二柱神社


 祭神は国常立命(くにのとこたちのみこと)等の天神七代と地神五代の十二柱の神です。
 天神七代というのは、記紀神話で国常立尊より伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)に至る七代です。
 地神五代は、神武天皇のより前に国を治めた五柱の神を言います。天照大神(あまてらすおおみかみ)・天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)・瓊々杵尊(ににぎのみこと)・彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)・盧鳥茲鳥草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)を表します。

 野見宿禰 (のみのすくね)

 境内には、野見宿禰を弔うためと伝えられる五輪塔があります。何故ここにあるかというと、この地は出雲という地名であることに注目しなければなりません。
 記紀によると、垂仁(すいにん)天皇の7年、大和国当麻の地にいて勇猛を誇る当麻蹶速(たいまのけはや)という男を、垂仁天皇の宮近くにあるカタケヤシという所で、出雲国から召された野見宿禰が相撲で倒したという相撲発祥に係わる話があります。

 ここにある出雲という地名は、国号地名ではあるのですが、いつの時代かに伝承として野見宿禰の話を定着させていったのでしょう。国号地名について

 野見宿禰は、相撲の勝利の後は朝廷に仕えるのですが、垂仁天皇の皇后の死に際し、生きた人を埋める代わりに埴輪を作って献上したといわれます。埴輪の起源説話です。以後、土師(はじ)の職を命じられ、姓も土師臣(はじのおみ)と改めます。歴史上の有名な人物である菅原道真は、土師氏の出身でありますから、野見宿禰の子孫であると言えます。

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武烈天皇の宮


 武烈(ぶれつ)天皇は、書記では小泊瀬稚鷦鷯天皇(こはつせのわかさざきのすめらみこと)、古事記では小長谷若雀命(おはつせべのわかさざきのみこと)とされています。共に初瀬の文字が名前に加えられています。
 十二柱神社は、その第25代武烈天皇の「泊瀬列城宮(はつせなみきのみや)」があった所とも云われます。

 武烈天皇の記録は、悪行三昧につきます。そのため実在を疑う説も有力になっています。応神天皇から始まるとされる河内王朝の終焉を演出するための記述だとされるわけです。

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出雲という地名について


 桜井市には、出雲という地名があります。橿原市や高市郡など近隣の地域を含めると、吉備・薩摩・飛騨・大隈・・・などなど、中部から西日本のほとんどの旧国名を地域名として見つけることが出来るほどです。これは、国号地名と言われるものです。

 これは、飛鳥または藤原京の造営や使役に徴用された人々の居住した地域だとされます。またそこには、地方からの租税を中継する地方の出先機関などが置かれたのかも知れません。この出雲もそのような国号地名だと思われます。

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二本杉


 ふたもとの杉と読みます。 長谷寺登廊の途中を右に入った先にあります。
この杉は、源氏物語「玉鬘の巻」に書かれています。

 玉鬘は、光源氏と契をもって後、生霊にとりつかれて死んだ夕顔の娘で、筑紫へ身を隠していたのですが、母に会いたい想いが募って都に戻ります。長谷寺参詣に出るのですが、そこで昔の母の侍女であった右近と巡り合いました。そして、母の死を知る訳です。

 玉鬘の巻は、
『 「うちつぎては仏の御中には、長谷なむ、日の本のうちには、あらたなる験(しるし)顕はし給うを唐土にだに聞えあなる…」との書き出しから長谷寺で始まりす。

「二もとの杉のたちどを尋ねずはふる河のべに君をみましやうれしき瀬にも」と聞こゆ。
「初瀬河はやくの事はしらねどもけふのあふ瀬に身さへながれぬ」
とうち泣きておはするさま・・・・。』

 謡曲にも「玉鬘」があり、その舞台は二本杉の元となります。初瀬詣の旅僧の前に現れた玉鬘の霊が「二本の杉」の下へ僧を案内して、亡母の侍女・右近と巡り会った事を話します。僧によって妄念を拭われた玉鬘は、成仏し静に消え去って行きます。

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ページ製作日 2005年 1月 9日