壬申の乱探訪名張編
夏見廃寺の巻
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![]() ![]() 薬師寺縁起複製 (夏見廃寺展示館所蔵品 掲載許可取得済)
![]() 薬師寺縁起複製 (夏見廃寺展示館所蔵品) |
夏見廃寺は、市内を流れる名張川の右岸、夏見の男山南斜面にある古代寺院の跡です。建立は飛鳥時代の後半であろうとされています。 注目される点は、天武天皇の娘である大来皇女(おおくのひめみこ=大伯皇女)の創建であるとされることと、珍しい建築様式や伽藍配置とともに、多量のセン仏が出土していることが挙げられます。 長和4年(1015年)頃に書かれた醍醐寺本薬師寺縁起の中に次のような一文があります。「大来皇女、最初斎宮なり。神亀二年(725年)を以って、浄(御)原天皇(=天武天皇)のおんために昌福寺を建立したまう。夏身と字す。もと伊賀の国名張郡に在り。」 壬申の乱に勝利した大海人皇子(おおあまのみこ=天武天皇)は、飛鳥古京の地に戻り、その2年(673年)2月に飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位します。天武天皇の誕生です。 同年4月14日、「大来皇女を天照大神の宮に遣わせるため、泊瀬斎宮にお住まわせになった。」とあります。また翌3年10月9日には、「大来皇女は、泊瀬斎宮から伊勢神宮にご出発になった。」と書紀に書かれています。 制度としての最初の斎王となった大来皇女(大伯皇女)は、父・天武天皇、母・大田皇女の間に生まれ、同母弟に大津皇子がいます。斎王となったのは、大来皇女13歳の時であったとされています。 時を経て朱鳥元年(686年)9月9日、父である天武天皇の崩御。そして同年10月3日、謀反の罪を負った弟・大津皇子の刑死。時を置かず、大来皇女は斎宮の職を解任されます。11月16日、「伊勢神祠に奉仕していた皇女大来が、京師に帰りついた。」書紀は、淡々とその事実を記しています。 その後の大来皇女の様子は分かりませんが、持統天皇の8年(694年)頃、この昌福寺が建立されることになります。発掘の成果などから夏見廃寺がそれに当たるとするのが有力になっています。 |
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![]() 須弥壇端の年号(複製品) |
何故、薬師寺縁起に725年の創建とあるものを、694年創建とするかについては、様々な解釈もあるようですが、夏見廃寺金堂を飾った大型多尊セン仏(セン=土偏に專と書きます)の一部である須弥壇セン仏の端に「甲午年□月中」と書かれており、この甲午が694年にあたり、セン仏の製作年と考えられることによります。 お寺の創建は、セン仏の製作時期を大きく外れることはないと思われ、それは金堂の考古学的年代観とも合致するようです。 |
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![]() 初期夏見廃寺伽藍配置図 ![]() 完成期夏見廃寺伽藍図 ![]() |
この694年頃に造られた建物は、金堂とその南東にある掘立柱建物とそれを囲む掘立柱塀だけであったようです。 左図を参照下さい。 (「ひとしひとひら」のももさん作製伽藍配置図 一部加工しています。) 祈りの対象としての金堂以外には、住まいとなる建物だけなのかも知れません。当時、大伽藍の寺院がたくさん建立されて行く時代にあって、あまりにも簡易な造りになっています。 大宝元年(701年)12月27日、大来皇女は逝去します。薬師寺縁起が伝える創建年725年が、全伽藍の完成した年だとすれば、皇女はこの寺院の完成を見ずに、41年の人生を終えたことになります。 しかしながら、そもそも大来皇女はこの地に大寺院を建立しようとしたのでしょうか。それを望んでいたのでしょうか。そこに何か釈然としないものを感じます。 私は、違うと思います。だとすると、誰が何の目的で塔や講堂などの伽藍を建設したのでしょう。下記でその謎にも触れてみたいと思います。 夏見廃寺は、斜面の影響を受けたためにこのような伽藍配置になったという説が一般的なのだと思われますが、本当にそうだったのかという疑問が現地に立つと起こってきます。 斜面の傾斜角から見て、講堂を金堂背面に建てることは、難しいことではなかったように感じるのですが・・、男山の傾斜面は、まだ後方に緩やかに続きます。そしてその土を利用すれば、斜面はもっと有効利用出来たのではないかと・・・。 建築や土木工事のことは門外漢ですので間違った考えかも知れませんが、伽藍を追建立した者が大来皇女とは直接的に関係の無い者であったとすれば、抜本的な改築などが出来なかったという理由がより大きかったのではないかと思えるのですが、如何でしょうか。 |
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![]() 金堂基壇と階段 ![]() 夏見廃寺復元南掘立て柱塀から金堂(左)と塔(右)基壇 ![]() 金堂跡と南東掘立柱建物 ![]() 金堂跡礎石 ![]() 金堂基壇と南面の階段 ![]() 掘立柱建物跡 ![]() 夏見廃寺復元金堂 (夏見廃寺展示館所蔵品) |
大来皇女の生涯を少し追ってみたいと思います。 大来皇女は、斉明天皇(さいめい)7年(661年)正月8日、百済への援軍出兵(白村江の戦い)途上の大伯海に至った時に船内で誕生しています。 『御船、大伯海に到る。時に大田姫皇女、女を産む。仍りて、この女を名づけて大伯皇女と曰ふ。』(書紀) 大伯の海というのは、現在では岡山県瀬戸内市牛窓町の辺りの海だとされているようです。 当時の皇子や皇女の名前には、養育に当たった氏族の名前やその経済基盤などが付けられることが多かったようですが、大来皇女や弟の大津皇子の場合は、生まれた地の名がわざわざ付けられており(大津皇子の誕生記事はありません。)、その由来が書紀にも書かれています。(大津皇子は那大津で誕生したと思われます。)同時期に生まれた草壁皇子はそうではありません。 なにかこの姉弟には、特別な理由が存在したのでしょうか。戦乱の地へ赴く天皇や大海人皇子たちは、大来皇女や大津皇子の誕生を、戦勝への吉事として士気高揚のために利用しようと、その停泊地や途上の地名を寿ぐ意味で名前としたのかも知れません。 その後、その願いは届かず白村江の戦いに敗れ、敗戦処理や近江遷都を目前にしての混乱の中、天智6年(667年)2月27日 『これよりさきに、天豊財重日足姫天皇(=斉明天皇)と間人皇女(はしひと)を小市岡上陵(おちのおかのうえのみささぎ)に合葬したが、この日、皇孫大田皇女を以って、陵の前の墓に葬った。』 大来皇女の母である大田皇女の死亡記事は、書紀には書かれていませんが、白村江の戦いの最中の慌しい中で亡くなったのではないかと思われます。 この時、大来皇女は7歳、弟の大津皇子は5歳だと思われます。 当時は、夫婦と言えども同じ家に生活していたわけではなく、基本的に通い婚であったように思われます。子供の養育も母方の手によるものだったとされています。 そうすると、幼く母をなくした姉弟は、どうしたのでしょう。大田皇女の父は、天智天皇(中大兄皇子)です。書紀には、大津皇子の才を愛でたというような記事もありますので、二人の姉弟は天智の側近くで養育されたと考えるのが自然なようにも思われます。 天武天皇の元年(672年)6月、天智天皇の崩御からおおよそ半年後、壬申の乱が勃発します。 大津宮も大来皇女にとっては安住の地ではなくなりました。大津皇子は、大海人皇子が吉野宮を出立してから2日後に京を脱出して、鈴鹿関で合流しています。 しかし、大来皇女の様子を伝える記事は全くありません。皇女は、大津宮に残されたのでしょうか、あるいは残ったのでしょうか。大来皇女12歳、大津皇子10歳の時のことです。 壬申の乱は大海人皇子の勝利となります。戦勝祈願をした天照大神を神の頂点に高め、自らをその皇孫となします。その中で、初代斎王に抜擢されるのが大来皇女と言うことになります。皇女は、天武天皇の長女になります。天武天皇の思惑からすると、自らの長女を遣わす事によって天照大神の権威を高め、またそうすることの意志や決断を臣下へ示すには、これ以上無い斎王の人選であったのかも知れません。 父・天武天皇の崩御と弟・大津皇子刑死という二つの忌事により、斎王を解任されるのは大来皇女26歳の時でした。 幼くして歴史の大きな流れに翻弄された皇女が、何をどう感じながらその後の14年の人生を過ごしたのかは分かりません。 飛鳥時代やそれに続く時代の仏教がどういうものであったか、その教義などに関しては全く知識を持ちませんが、皇女がその半生に係わった人々を想いながら、伊勢と大和の中間点であり、後の斎宮上路と呼ばれる道(妄想ですが、大来皇女の故事や昌福寺がある故に、斎宮上路はこの道に定められたのかもなどとも思ったりします。)のほど近くに、激動の人生から開放された静かな暮らしを求めたのではないかと私は思います。 その考えに立つと、大伽藍の寺院は不要なもののように思えるのですが如何でしょうか。 悲劇の皇女と言ってしまえば、あまりにも安易ではありますが、幼くして激動の時代を迎えてしまった大来皇女もまた、その意味でその一人であったのかも知れません。 復元金堂の前に立つと、静かに座す大来皇女の姿が見えてくるように思います。 古寺燦然 (参照 当サイトコンテンツ) |
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![]() 金堂壁面を飾るセン仏の壁 (夏見廃寺展示館所蔵品) ![]() 復元大型多尊セン仏 (クリックで拡大します) (夏見廃寺展示館所蔵品) ![]() 螺髪 (夏見廃寺展示館所蔵品) ![]() ![]() 夏見廃寺金堂礎石 ![]() 夏見廃寺金堂現地説明板 発掘当時の金堂 ![]() ![]() |
左と左上の写真は、名張市夏見廃寺展示館に復元された本堂です。金色に燦然と輝くセン仏は、朱塗りの建築部材と緑の連子に囲まれた空間を、非日常の世界へと誘います。 これが大来皇女が造ったであろう昌福寺金堂の復元モデルになります。 セン仏と言うのは、仏像をレリーフした焼き物と思えば良いでしょうか。仏像を半肉彫りした雌型に粘土を詰めて、形を取った粘土板を焼き上げて表面に金箔を貼って仕上げてあります。 復元された金堂壁には、大型多尊セン仏を中心にして独尊セン仏、三尊セン仏など大きさの違う5種類のセン仏709個が組み合わされ、縦2.8m 横2.1mの金色の壁を再現しています。 中央に位置する大型多尊セン仏は、沙羅双樹を背にした阿弥陀如来が説法をする時の印を結び、弟子である菩薩達や天部像が周囲を取り囲むように表されています。また上部には、宝珠を散りばめた天蓋があり、両側には飛天の舞う姿があります。 多尊セン仏の下部には、須弥壇セン仏があります。香を捧げる者、楽器を奏でる楽人、獅子などが表現されています。そしてその端には、甲午の年号が入っています。 古寺燦然 (参照 当サイトコンテンツ) 広いという堂内ではありませんので、祈りの対象はこのセン仏なのかと思えるかも知れないのですが、発掘調査では螺髪も出土しており、大型の塑像仏があったことが分かっています。螺髪の大きさから考えると丈六仏である可能性もあるのではないかと思いました。 古代寺院の金堂は、堂内に入って拝むということを考慮していないものもあるようです。堂前で額突くことが前提となっており、堂外に礼拝石などと言うものが存在している寺院もあります。 夏見廃寺金堂は、興味深い建築様式を示しています。左図を参照下さい。内側に囲まれた部分を身舎(もや=内陣)と言います。外側を廂(ひさし=外陣)と呼びます。3間×2間の身舎を建てる場合、図の左側が一般的な建築で見られる形になり、身舎より廂の柱数が増えています。図の右が夏見廃寺の金堂の様子を示しています。身舎と廂の柱数が同じであることが分かります。また中央部分の柱間が広くなっているのも特徴的です。 左写真は、現地に復元設置された金堂礎石を撮ったものです。 夏見廃寺の金堂では、建物の補強のため礎石を伴わない間柱と言うものが、あるべき柱の位置に設けられています。 このような建築様式を示す寺院は、飛鳥の山田寺や鳥取の上淀廃寺や滋賀の穴太廃寺、また法隆寺にある玉虫厨子に見ることが出来ます。 詳しい夏見廃寺の考古学的アプローチは、こちらにお任せしましょう。 ひとしひとひら > 夏見廃寺跡 話を少し戻しますが、夏見廃寺(昌福寺)がなぜこの地に建てられたのかと言うこと、言い換えれば、大来皇女はなぜこの地に住まいするようになったのかと言うことが、私には不思議でありました。 大化の詔によると、この名張を流れる川(横河)が畿内と畿外を分ける川であると定められています。 『大化2年(646年) およそ畿内(うちつくに)は、東は名墾(なばり)横河まで、・・』 夏見がそのちょうど境目に位置することも、なにか意味のあることなのかと思ったりもしました。 この名張の地は、伊勢神宮あるいは斎宮との関連が深く、大来皇女の次に斎王となる当耆皇女(=託基 たきのひめみこ=父・天武 母・宍人臣カジ媛娘)も夏見郷に墾田を持っていたことが伝えられています。また、奈良時代に入りますが、やはり斎王となる酒人内親王が名張郷に栗林持っていたとされています。斎王になる皇女達の御料地としての存在も考えさせられます。 また、名張の夏見に含まれる地には、伊勢神宮領(多良牟六箇山=たらむむこやま)が広大な面積を持って存在していたことが知られています。 名張は、大和と伊勢の中間点であり、畿内外の境をなします。それのことを、天皇と天照大神の間を取り結ぶ斎王の象徴的な意味合いとして重要視された土地であったかも知れないと思うのは、考えすぎかも知れません。 |
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![]() 夏見廃寺史跡公園内説明板 |
先ほども書きましたが、夏見廃寺は少なくとも二期に渡って造られています。主要伽藍となる塔や講堂が建設されたのは、大来皇女が逝去した後であること、また大来皇女が大伽藍の寺院建設を考慮していなかったのではないかという憶測を書きました。 では、誰が何のためにこのお堂だけのお寺を拡張したのでしょうか。 名張の夏見には、地方豪族として夏身氏と言う者がいました。彼等は、夏見廃寺から北西に僅かの距離にある鴻之巣遺跡と後に呼ばれる建物群に居住していたことが分かっています。彼等が、どのように夏見廃寺と係わっていたのかを探って行きたいと思います。 ページを改めて、夏身氏と鴻之巣遺跡に話を移します。 つづく |
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2006年 7月 7日 風人記
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